大キレット走破
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夕暮れの北穂高より |
私と大キレット
大キレットは穂高連峰の南岳と北穂の間にV字型に切り込まれたキレット(切戸)である。標高差±300メートル、距離は1.7キロメートル、標準コースタイム約3時間半。難所として有名である。2014年9月13日より上高地より入山して私はこの大キレットと北穂高、涸沢岳を縦走した。今回の山行は私にとってこれまでの集大成みたいなものであった。思い返せば2011年10月、はじめて槍ヶ岳に登ったとき、連なる尾根の向こうに見える北穂高を目指して歩いたが、大キレットの鞍部でそびえ立つ岩稜に圧倒され、尻込みして踵を返した。敗北をかみしめ山から下りたが、それ以来私にとって大キレット走破は人生のテーマになった。この敗北を背負ったまま死ねるかとの思いである。なぜ撤退せざるを得なかったのか、なにが不足していたのか、いろいろと反省し、鍛錬をかさね、65歳になった今年が最後のチャンスと、9月の連休に決行に及んだ。これは自分自身の戦いである。故に初めから単独行と決めていた。進むも、戻るもすべて自分で決め、後悔のないようにする。
アプローチは槍沢ロッジで一泊して翌日に槍側の大キレット入口である南岳に向かって横尾尾根を登る。南岳に達した時点でその日に大キレットに突入か否かを判断。大キレットを抜け北穂に達した時点でさらにその先涸沢岳へのアタックを判断する。最大で三泊の山旅だ。
ルート図
一日目(明日に備えて体力温存)
初日は槍沢ロッジ泊り。行程も楽なので、気楽に歩ける。横尾までは涸沢組、槍組ともに同じ道を歩くのでまさに長蛇の列。今年最高の入山者とのこと。
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横尾 |
横尾からは涸沢方面組と分かれ、梓川沿いを槍ヶ岳方面へ登っていく。最初の休憩ポイントで休んでいると、なんと木々の間に槍の穂先が見えるではないか。大発見だ。多分この行程で槍が初めて見えるポイントなのでは。しばし立ち止まり、穂先を眺め周りの登山者たちと言葉を交わす。さらに川をゆっくりと遡り、2時、槍沢ロッジに到着した。
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ロッジ前庭 |
ロッジはすでに満員状態。前庭で宴会を始めているグループもある。登山者は続々と到着する。このまま収容し続けていったい何処に寝るのかと思っていると、ついに廊下に布団を敷きはじめた。やがて風呂の脱衣所まで寝室となった。
ロッジでは時間をもてあまし、翌日のことをいろいろと考える。とにかく5時にはここを出発し、12時までに南岳に到着して、体調次第で大キレットに突入するかどうか決める。大キレットに突入となれば8時間超の歩きになること間違いなし。高度差も累計で1500ぐらいになるだろう。明日に備え夕食後、すぐに寝る。朝食も混雑をさけて弁当とする。
二日目(標高3000を目指して)
5時、ヘッドライトをつけて出発。やがてババ平のテン場辺りからテント泊グループも加わり、槍へ槍へと行列ができる。ルートの先には青空の下に氷河公園のカールが見えてくる。今年は低温だったせいか雪渓も残っている。
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雪渓を登る登山者の列 |
7時に槍と天狗池との分岐着。目指す南岳はここから天狗池を経由して横尾尾根をいっきに登りつめたところにある。殆どの登山者は槍を目指す。寄り道で天狗池に行く登山者もここに荷をデポして空身でピストン。私はフル装備で氷河公園を横切り天狗池を目指す。氷河公園ではこの季節にはめずらしくチングルマが咲いている。遅く短い春が訪れたのだろう。やがて残雪に囲まれた天狗池に到着。水面に逆さ槍が写り、絶好のビューポイントだ。
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天狗池と槍 |
しかし私はこれから登る横尾尾根の厳しさに身構えている。見上げると南岳に向かって横尾尾根が白い岩肌をむき出しで待っている。すでに標高も2500を超え、息も苦しい。これからは体力消耗をいかに少なくしてこの尾根を登りきるかだ。ゆっくりとペースを落とし尾根登りを開始する。この尾根は私の数倍もある大きな岩が重なりあっている。
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手前の尾根が岩稜の横尾尾根 |
岩肌に白ペンキで進行方向が矢印が書かれているのが唯一の手がかりだ。歩の置場に苦労する。踏み外すと体型を崩し、転倒すること必至。帽子を脱ぎヘルメットをかぶる。慎重に歩を進める。天狗池より2時間ほどで鉄ハシゴに到着。ここを登れば尾根の終わり、つまり南岳だ。南岳に到着したのが11時。ほぼ予定通りだ。とりあえず最初の難関は突破。一休みしているとヘリが飛んできて私の登った横尾尾根の上で空中停止してる。誰か遭難者でもでたのか。あとで判ったのだが、私とすれ違って下山していた登山者が滑落して死亡したとのこと。あの歩きにくい岩々から足を踏み外したのだろう。ご冥福を祈る。
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横尾尾根を登り休憩 道は南岳へ |
そんなことも知らず、私は大キレット入り口の南岳山荘に歩をすすめ、11時30分に山荘に到着。さあどうするか。大キレットに突入か、時間はある。問題は体力と勇気があるかだ。パンをかじりながら考える。大キレットはモヤがかかり全貌は見えない。鞍部に向って大下りの斜面がモヤのなかに消えていく。入り口で立ち、逡巡していると外人3人組が到着。道標を指さし、なんて書いてあるか私に尋ねる。「ダイキレット」と答えると、「OH! DAIKIRETO ☆△○*」と大喜び。私が先にいけと道を指さすと、お前が先だと言う。しょうがない、これを断ると日本人の恥。つられて私も彼らと一緒に大キレットに突入してしまった。人生案外とこんなことで大事なことが決まってしまうのかな。
大キレット
大キレットはいきなり鞍部までの大下りから始まる。標高差300mほど下る。鎖、鉄梯子の連続だ。
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大キレットはいきなり大下りから始まる |
後ろからにぎやかな外人3人組が続く。鎖場に難儀しているみたいだ。この大下りは一度経験しているのだが、垂直に垂れた長い鎖はこれから続くキレットの厳しさをあらためて想像させる。下ることほぼ1時間でキレットの鞍部に達する。前回はここで正面にそびえる北穂高に圧倒され戻ってしまった。まさに私が敗北した地点に来たのだ。ここに来るため私は何年も鍛錬を重ねてきたのだ。しかし私を圧倒した北穂高の岩稜はモヤの中に隠れている。これから続く核心部を前に覚悟を新たにする。すれ違う登山者に先の様子を聞くと「大変ですよ、気を付けて」とのこと。鞍部の先、急登を登り尾根に達すると最初の難所、長谷川ピークが現れた。
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長谷川ピーク始まり |
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長谷川ピーク核心部 |
急登で私に先行した外人3人組が躊躇している。鎖を頼りに細い尾根を伝っているが足の運びに苦労しているようだ。とまっていると後ろから若者たちが追い付いてきて「あ、長谷川ピークだ!」と叫んでいる。
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後続の若者たち、私を「お父さん」と呼ぶ |
ここは人生の記念とばかり外人組も、若者組も、みな記念撮影をはじめた。私もカメラを若者に渡し撮ってもう。この時から私たちは老若男女が混ざり合う国際チームとなった。
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私です |
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長谷川ピーク最後の崖下り |
どうにか長谷川ピークを通過し少し歩くと小さな広場、「A沢のコル」。信州側にあるコルだ。そびえたつ北穂の直下にある。この先は岩壁が立ちはだかっている。長谷川ピークを通過した後なので、まず殆どのひとはここで休む。しかし私は休憩もそこそこにして出発した。この壁を登るのは相当な息切れが必至故、先に歩いても皆に追いつかれてしまうことは間違いない。つまり一緒に出発するとどんどん離されてしまうからだ。
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北穂高側よりA沢のコルを見下ろす |
岩に記されたルートを頼りに壁を登り飛騨側に回ると、鎖場でカップルが難儀している。「飛騨泣き」だ。まさにネットで何回も見た画像と同じだ。先に登った男が続く女性にいろいろと指示をしている。女性は怖そうに鎖に手をかけ登ろうとしている。足元の切り立った谷に恐怖しているみたいだ。やっとのことで女性が登ったところで私は後続者たちに先をゆずり、後からゆっくりと追うことにした。さらに鎖が連続して登り続けるとルートは信州側にまわり、細い尾根筋を渡ると視界はいっきに広がる。岩に「展望台」とかかれている。見上げると北穂高小屋が見える。この瞬間に大キレット走破を確信した。
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飛騨泣き、はじまり |
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飛騨泣きのステップ |
あとは息切れと相談しながら上に見える北穂高小屋まで登りつめればいい。小屋に到着して外人さんと握手したら「CONGRATULATION」と互いを祝福しあった。そしてテラスから走破した大キレットを見下ろし、ひそかに自分を称えた。
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飛騨泣きをすぎ展望台で一休み。上に小さく北穂高小屋 |
北穂高小屋
北穂高小屋についたのは16時。すでに多くの人で賑っている。ここは涸沢、奥穂高、槍の3方面からの合流ポイントだ。ここに山小屋を作った小山義治氏の自伝「穂高を愛して二十年」を読んだことがあるが、氏は戦争中から軍国日本をさけ、穂高を愛し続けた。戦後はこのポイントに絶対に山小屋が必要だとの信念のもと自力で小屋を建てた。反戦に生きた庶民の物語でもある。彼のすごいところは自分で資材をここまで運び上げたことだ。小屋の梁を命がけで担ぎ上げるところはまさに圧巻だ。
小屋は満員、1枚の布団に2人とのこと。私は同じ時刻に到着した外人3人組と布団を共有することになった。それにしても大らかな小屋で、順に並んで食事をとるシステムになっている。食券確認はされなかったような気がする。
三日目(涸沢岳へ)
翌朝、6時に涸沢岳へと出発。とりあえず奥穂高小屋までいく。
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出発、左前方に富士が小さく見える。正面が奥穂高 |
情報によると涸沢岳へのルートは大キレット以上に難所である。それはスタートしてすぐに判った。いきなり岩稜の尾根道となる。ペイントを見失わないよう慎重に歩を進める。少しでもルートを外れると私のような素人ではとても歩けない岩場となる。方向を示すペイントを見逃してルートをはずれ、岩壁にはばまれたときは躊躇せず戻る。これを戻らず進んでしまうと遭難すること必至である。
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奥壁バンド。崖っぷちを歩く |
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奥壁バンド |
歩くうちにルートは「奥壁バンド」といわれる壁沿いの高度感のある難路を通過し、鎖場、3点確保による岩歩きくりかえし、涸沢槍の手前にある「最低コル」に達する。
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このような岩場が続く |
ここから涸沢槍を見上げる。その険しさに身震いする。いったいあのハシゴを登って、そのあとルートはどうなっていくのか。たしか涸沢槍をまいて涸沢岳にルートは進むはずだ。とにかくいってみよう。
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涸沢槍を見上げる。ルートは頂上を巻いてさらにその先の涸沢岳へと続く |
ハシゴを登り長い鎖場を通過し(日本一長い鎖場といわれている)、アンカーの打たれた岩場を登る。怖いので下は見ない。ただ想像しただけでも脚がすくむ。止まっているとよけいに怖いので、とにかく登る。そのうち目の前に垂れた鎖を見上げるとその上は空が広がっている。とうとう涸沢岳に上り詰めたのだ。思わず「やったぜ」と独り言。最後の鎖を力強く登った。北穂高小屋をでてから緊張の連続の2時間だった。
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涸沢槍への斜面より来た道を振り返る。右側が涸沢カール |
奥穂高山荘から涸沢へ
涸沢岳にくると直下の鞍部に奥穂高山荘が見える。その先に奥穂高がそびえ立ち、さらに西穂高へのルート、ジャンダルムなどが見える。とりあえず奥穂高山荘に荷を下ろして休憩。ここから辰野の友人Nに電話をする。「明日、会えないか」。残念だがNは都合が悪いとのこと。これでこの先の予定は決まった。Nに会えないなら奥穂高には登らずにこのまま今日中に帰宅する。このままザイデングラードを下り、上高地までいっきに歩けば最終バスに間に合うだろう。下に涸沢のカールがよく見える。ここを目指して下ればいい。
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涸沢岳より。正面が奥穂高、右奥がジャンダルム、左が前穂高 |
ザイデングラードはこれまでのルートに比べるとはるかに歩きやすい。下山中に沢山の登山者へ道をゆずった。多分、朝に涸沢を出発してきたのだろう。奥穂高へのピストンか。順調に下り涸沢に達し、小屋で最終バスの時刻を確認。
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涸沢小屋より |
ランチ時間を節約するため歩きながらSOY JOYを食べ、横尾を目指す。横尾に着いたのは2時だった。来たときの横尾はちょうどランチ時だったので沢山の登山者でにぎわっていたが、この時間となると閑散としている。休憩もとらず徳沢へ。上高地16時45分のバスに乗り今回の山旅を終えた。
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横尾にて |
余韻
大キレット走破は永年の夢。しかし、歩いているときは前後に人もいたせいか怖さは感じなかった。むしろその先の涸沢岳へのルートのほうが怖かった。岩場で足がすくんだ。しかし不思議なもので、あらためて大キレットの写真を見ると、よく歩いたと自分でも思う。長谷川ピークから飛騨泣きまで、歩いているときに目にした岩岩が今でも頭に映像として浮かんでくる。沢山の大キレット走破報告がネットにアップされている理由が判ったような気がする。今、私は未踏に終わった奥穂高へいかなくてはいけないと思い始めている。つらい体験、怖い体験、すべてがいい思い出となっている。山登りとはマゾヒストの心境か。それとも自分の限界を知る楽しさか。私の山旅はまだ続く。
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